私はインターネットを使うようになって、三十年ほどになる。当初は使う人が限られていた。ある程度の読み書きと、相手を察する力のある人間が、ほとんどであった。匿名の掲示板が出てきても、いまに比べれば、まだましだった。異常な者を戒める、自浄作用のようなものが、辛うじて残っていたのである。悪口はあった。だが、悪口にも、場の空気という歯止めがあった。だから匿名性は、維持されるべきものだと私は思っていた。ハンドルネームという、半ば顕れた名を持つ者が発言し、場を引っ張る構図も、悪くはなかった。顔は出さず、声だけを出す。その中間が、匿名の徳を支えていた。匿名の徳は、まだ生きていた。

しかし、手のひらの機械が普及し、すべての人がインターネットを使うようになったいま、私はその匿名性に、否定的になりつつある自分を感じる。名を隠すと、人は正義の色を濃くする。正義の色が濃いほど、罵詈は軽くなる。罵詈雑言と異常な振る舞いが、白日の下に並ぶ。わざわざそのような発信をする動機のほとんどは、負の感情である。人を傷つける。店を傷つける。企業や団体や民族を傷つける。傷つける側は、傷を正義だと思っている。発言の主を特定することは、いまの技術ではできる。だが、その手続きと手数は多く、現実的ではない。結果として、泣き寝入りするほかない。泣き寝入りは、静かな敗北である。敗北が積み重なると、場そのものが腐る。

近頃見た例は、どれも同じ顔をしている。終戦の日に靖国へ参った人の写真を見て、容貌を罵る者のプロフィールには、戦争反対、家父長制反対、護憲平和、女性に優しい社会、と書いてある。同性愛を公にして政治をする者のもとへは、変態、異常者、お花畑、日本を破壊するな、といった言葉が届く。その送り手の名の下には、祖国愛、天皇陛下万歳、愛国者と日の丸が並ぶ。予約制と書いてある焼肉へ、予約せずに行き、入れなかった腹いせに星一つを置く。参考になった、という印が十二も付く。正義の色は左右で違う。しかし、相手を属性で括り、対話する前に敵と決める手つきは、よく似ている。さいき陽平の言うとおり、右か左ではない。右も左も、同じナイフを、違う旗の下で振っているだけである。

負の言葉は、似た者同士の泡のなかで増える。社会は、その泡で悪くなる。私はかねて、SNS、ことにエックスという場所を、「異常なる者を可視化している」と感じていた。可視化そのものは、悪くない。隠れた悪意が見えるのは、むしろ正直である。可視化は、しかし、増長と増殖を呼んだ。見えることは、真似される。真似は、群れになる。世界がこの力学で動くようになったことは、憂慮すべきことである。これを人の努力でなんとかなるか。問えば、絶望しか返ってこない。努力は、泡の外側で行われる。泡の内側は、努力を笑って増える。

では、匿名を廃して実名にすべきか。年齢を限るべきか。実名は、暴力を減らす代わりに、別の恐れを増やすかもしれない。年齢は、線を引く代わりに、線の外を見えなくするかもしれない。私には、まだ答えがない。インターネットのメディアやコミュニティを作ってきた人間として、贖罪のようなものも感じる。便利な場を渡せば、人はその場で、自分の一番きたない声を試したくなる。作った側の人間が、いまさら悩ましい顔をするのは、見苦しいかもしれない。見苦しくても、私はまだ、どうしたらいいのか、わからないのである。わからないことを、わからないまま置くのも、理智の一種だとは思う。ただ、その理智は、いまのところ、何一つ救わない。匿名の徳は、もう、昔話に近い。