読書は娯楽だ
世間は、読書を偉いと言う。偉いから読め、と。読めば頭がよくなる。読めば人格が上がる。読めば、親の顔が立つ。読書は、いつの間にか勉強の席に座らされている。娯楽のくせに、教科書の隣に置かれる。私は、それが気に食わない。
知能の高い人の趣味は読書だ、千三百件の研究で判明した、という見出しもある。難しい顔をして、読書を難しいものに見せる。頭のいい人間の夜は、本でできている、と。実際は釣りの題である。釣りの題ほど、世間の欲しがる「偉い読書」に似ている。似ているのが、おかしい。私はおかしいものを、おかしいと言いたい。
心理学者が解説、知能の高い人の趣味は「読書」 1300件の研究で判明
Forbes JAPAN
事実は、もっと俗である。読書は長いほどいい、は大いなる誤解だそうだ。二時間を超えると、成績は下がる。娯楽なんだから、過ぎると悪影響がある。ほかの娯楽といっしょである。酒も、芝居も、勝負事も、過ぎれば身を滅ぼす。本だけが、聖人の道具であるはずがない。聖人の道具だと思った瞬間に、本は娯楽をやめる。娯楽をやめた本は、私には退屈だ。
「読書は長いほどいい」→大いなる誤解。2時間以上で成績が下がる逆U字現象
東洋経済オンライン
私は、偉そうに言えない。子供の頃は読書が好きだった。十代になって、コンピュータと音楽に目覚めてから、本を読まなくなった。機械と音のほうが、熱かった。本は、冷えた。冷えた本を、私は捨てたつもりでいた。捨てたつもりが、残っていた。その反動か、五十をすぎて、読書、ことに近代の日本文学を読むおもしろさに目覚めた。遅れて来た娯楽である。遅れて来た人間が、いまさら読書の効能を説くのは、見苦しい。見苦しくても、娯楽だと言っておきたい。効能より、おもしろさだ。効能を先に置くと、本は宿題になる。宿題になった本は、閉じたくなる。
家にも、証拠がある。長女は読書が好きで、夜、宿題のあとに本を開く。妻は言う。勉強のあとに本を読むなんて、信じられない、と。世間の声である。宿題は勉強、本も勉強、勉強のあとに勉強をする子供は信じられない、と。だが、長女も私も、その行動は苦ではない。苦でないものは、勉強ではない。勉強は、強いて勉めることだ。強いていない。おもしろいから、開く。つまり読書は、娯楽なのだ。妻の「信じられない」は、本を勉強だと思っている人の、正直な声である。正直な声ほど、裏を見せる。裏は、たのしみである。
技術書や実用書は、デジタルで足りる。ことに動画は、理解が早い。手を動かして、目で見て、わかる。文学は、基本的に実用ではない。過去や未知の情景を想像する。自分ではない人の経験や想いにひたる。新しい感情や感覚を知る。なんの役にも立たなくていい体験である。それが、文学を読むことだ。役に立たぬ体験を、世間は贅沢と呼ぶ。贅沢を、私は安くやりたい。本は、その安さがいい。ついでに言うと、忘れられた物事や表現に出くわして、すぐ調べる。新たな知識が得られる。とは言え、役に立つまい。役に立たぬ知識ほど、私は好きである。好きなものを、勉強と呼ばれたくない。
AIの時代に入り、「実用的知識」なるものが、どれだけ役立つのか、見通せない。役立つ知識は、すぐ古くなる。古くならないのは、役に立たぬほうかもしれない。役に立たぬほうを、世間は無駄と呼ぶ。無駄を恐れる人間ほど、本を勉強にしたがる。私は無駄が好きだ。無駄が、娯楽の本体である。
文学を読むことの娯楽性、たのしさを、もっと伝えたい。偉くならなくていい。賢くならなくていい。ただ、おもしろければいい。世間はそれを勉強と呼ぶ。私はそれを、娯楽と呼ぶ。呼び方が違うだけだ。違うだけで、人生の温度が変わる。温度の高いほうを、私は取りたい。長女が宿題のあとに本を開くのも、五十をすぎて近代文学を開くのも、同じ温度だと思う。偉く育ったかどうかは、あとから世間が付ける点だ。点の前に、おもしろさがある。おもしろさだけを、私は信じたい。