先祖の文を読む楽しさ
お盆に妻の実家へ赴くと、思いがけぬ読みものがあった。妻の祖父は国語の教師なりき。学校や地域の会報などに残した文章を、娘——即ち妻の叔母——が、整った楷書にて書き直したものなり。私は其の冊を開き、先の人の文を読む、といふ単純な行為に、存外の楽しさを覚えた。知らない他人の小説を読むのとも、今日の知らせを読むのとも、少し違う。血の通った誰かの声が、紙の向こうから届く心地がする。それが、妙におもしろい。読むほどに、楽しさは増す。
昭和三十年代から四十年代にかけての文なり。身近な出来事、小中学校の教育のこと、亡くなった先輩への弔文——数篇あるのみなれど、各々に味わひありて、読み応へあり。飾りを衒はず、事実を淡く置く。其の淡さがおもしろい。さすが国語の先生、と頷きつつ、私は頁を繰る手を止められなかった。青空文庫へ載せてみては、といふ話も出たれど、著作権は未だ切れず、規定により載せられぬとのこと。公に開かぬ文も、読むには十分なり。寧ろ、家の中でだけ読める文のほうが、親密な楽しさを孕むのかもしれぬ。
次女も亦、其の冊を読んでおもしろがった。人工の物語ではなく、身近な親族の事実を糸とした話は、確かに人を惹きつける。血縁の近さが、文章の温度を上げるのか。それとも、事実そのものが、既に物語の形を孕んでいるのか。私には判然とせぬ。ただ確かなのは、読む楽しさである。斯様な文章が世の中に無数にあるのであらう。私は其の無数を、もっと読みたいと思ったのである。名の知れた文豪ばかりが、おもしろいわけではあるまい。先祖の文を読む楽しさは、案外、身近なところに転がっているものなり。盆の帰路、其の思いだけが、軽く、然れど抜け難く、胸の底に残った。