東京がジャカルタなら、京都はジョグジャカルタだ。

その一文を目にしたとき、私の中で何かがカチリと音を立てた。インドネシアの古都。ボロブドゥールやプランバナンへの玄関口。私がその街について知っていたのは、せいぜいそのくらいのことだった。観光ガイドの片隅に載っている、遺跡と王宮の街。それ以上でも以下でもなかった。

だが、ジャカルタに対するジョグジャという補助線を引いた途端、その街はまったく違う顔を見せはじめた。

私は京都で生まれた。そしていま、東京で暮らしている。

東京に住んで長くなるが、自分がこの街の人間になりきれたと感じたことは、たぶん一度もない。それは居心地が悪いということとは少し違う。東京は便利で、刺激的で、仕事も人もここに集まってくる。日本という国の、紛れもない中心だ。ただ、中心にいればいるほど、私はどこかで、中心ではない場所のことを考えてしまうのだ。

京都の魅力とは何か、と問われれば、多くの人は古都であることを挙げるだろう。寺社仏閣、千年の都、雅な伝統。もちろんそれは間違いではない。だが、京都で生まれた私にとって、京都の本当の面白さはそこにはない。

たとえば、京都は学問の街だ。大学がひしめき、学生が街の一割を占めるとも言われる。路地の古本屋、議論の絶えない喫茶店、夜通し語り合う若者たち。京都は昔から、東京という権力の中心とは別の場所で、ものを考える人間を育ててきた。

たとえば、京都には左翼的な風土がある。お上に対して斜に構え、中央の決めたことを鵜呑みにしない。それは単なる反骨というよりも、自分たちの頭で考えるという、ある種の矜持のようなものだったのかもしれない。

そしてたとえば、京都はベンチャーの街でもある。任天堂、京セラ、オムロン、村田製作所、ワコール。東京の財閥とは別の流れから、独自の技術と発想で世界に打って出た企業が、この古い街から次々と生まれてきた。伝統の街が、実は最も新しいものを生み出してきたのだ。

学問、反骨、そして挑戦。私が京都に惹かれるのは、それが東京という中央に対する、文化的なカウンターとして存在しているからなのだと思う。中心から少し離れた場所だからこそ、見えるものがある。考えられることがある。

では、ジョグジャはどうなのだろう。

調べてみると、ジョグジャは学生の街でもあるらしい。インドネシア有数の大学があり、国じゅうから若者が集まってくる。芸術家やミュージシャンが住み着き、独自の文化が育っている。首都ジャカルタが政治と経済の巨大な中心であるのに対して、ジョグジャは文化と学問の街として、首都とは違う空気を吸っている。

もしそうだとしたら、ジョグジャもまた、ジャカルタに対するカウンターなのではないか。古都という看板の向こうに、私の知らない、生きた街があるのではないか。

そんなことを考えているうちに、私はもうひとつのことに気がついた。ジョグジャには、面白い書店があるらしいのだ。

書店は、私がいつかやりたいと思っていることのひとつだ。だが、本を並べて売るだけの、従来の書店をやりたいわけではない。本を真ん中に置いて、人が集まり、語り合い、何かが生まれていく場所。売り場ではなく、コミュニティとしての書店。そういうかたちでなら、本屋という商売はまだ成り立つのではないか。私はずっとそう考えてきた。

学生が多く、文化が育ち、中央とは違う空気が流れる街に、人の集う書店がある。それは偶然ではないような気がした。カウンターとしての街には、カウンターとしての場所が必要なのだ。京都の古本屋や喫茶店がそうであったように。

行ってみたい、と思った。

それは、かつて若者たちがリュックひとつでユーラシアを目指したような、衝動に近いものだった。遺跡を見るためではない。王宮を訪ねるためでもない。中心から少し離れた場所で、人がどんなふうに考え、どんなふうに集まり、何を生み出しているのか。それをこの目で確かめてみたいのだ。

もしかしたら私は、ジョグジャの中に、京都を探しに行こうとしているのかもしれない。あるいは、東京で暮らす京都生まれの自分自身を。

東京がジャカルタなら、京都はジョグジャだ。

その一文は、どうやら私にとって、旅の始まりを告げる合図だったらしい。

本を買うだけなら、オンラインでいい。Buku Akikが考える、これからの書店独立系書店が活況を見せるインドネシアの文化都市・ジョグジャカルタ。Buku Akik創設者Tomi Wibisonoに、実店舗の価値とこれからの書店のあり方を聞く。makinindonesia.com