科目の空白
知人の弟が、外科医をやめて美容外科へ移ったと聞いた。
腕のある人間が、地域の病院を離れる。新聞種になるような事件ではない。理由を尋ねれば、答えはだいたい同じ方角を指す。労働の密度、患者の要求、報酬の差である。説明は短い。短いほど、あとに穴が残る。誰かが穴を埋めるわけでもない。ただ、次の当直表から名前が消える。
同じ頃、近所の個人医院が一般の内科検診をやめた。看板は残っている。中身は、高齢者のかかりつけに特化したという。地域密着という言葉は、かつては子供の熱も、働き盛りの健康診断も含んでいたはずだ。いまは、残った需要の太い線だけを拾っている。細い線は、静かに切られる。切られた側は、別の病院を探す。別の病院も、同じ計算をしていることが多い。
人が足りない。クレーマーがいる。きつい、というのは事実だろう。事実を並べると、個人の選択は正当に見える。外科医は美容へ行く。医院は高齢者へ寄る。どちらも、生きるための転進である。責める材料は薄い。責めたところで、人手は戻らない。
だが、社会に必要な業務は、選ばれなかった側に残る。そこを誰が守るか。金を積めば人が戻る、という話は半分しか正しくない。生活と環境と権利を、ルールとして定めなければ、必要な仕事から人は静かに抜けていく。抜けたあとの空白は、事件のように派手ではない。誰も逮捕されない。記録にも残りにくい。ただ、次の病人が、行く場所を失うだけである。
制度は、人が去ったあとに遅れて追いつく。追いつくまでのあいだ、空白は日常の顔をして残る。誰も騒がない。騒がない空白ほど、あとが長いのである。特に新しい発見ではない。発見でないことが、いちばんの問題なのだろう。