ブリリアントジャーク

長く、大小さまざまな組織の一員として働いてきた。企画、営業、事業開発と呼ばれる領域で、決して頭角を現したとは思わないが、当たりも外れも経験してきた。外れのほうが数では勝っている。しばしば事業のチームを任され、中にはエンジニアやデザイナーがいて、外側には別部署の承認者や顧客——ステークホルダーが渦を巻く。責任の所在だけは鮮明に見える。会議の数は増え、意思決定の輪郭は細くなっていった気もする。

かつて在籍したのは米国発祥のテック企業の日本法人で、当時は市場でも名前の通っていた。そこへ、他チームから事実上見放されてきた一人のエンジニアが入ってきた。対面ではほとんど喋らないのに、チャットだけが異様に長く、皮肉と愚痴で埋め尽くされていた。技術力は本物で、若いエンジニアがその空気に染まる前に何とかしなければという焦りもあった。彼は懸賞サイトの常連だった。私も試しに応募してみた。当たらないし、応募したくなる案件も多くはない。それを率直に話したとき、初めて口頭で返事が返ってきた。人間関係の入口が抽選ページだというのは滑稽に見えるが、笑いきれないものがある。

数年後の別の会社では、違うタイプの難物がいた。デザイナーだ。心理学を学んでいたからといってデザインの権威が自動的についてくるわけではないのに、高圧的に人を責め、上司の機嫌を取って虎の威を借り、「忙しい」と繰り返しながら、ぱっと見では暇そうに見えた。懸賞のような無難な共通話題も見つからず、距離を取るしかなかった。特定の職種だけがそうだというつもりはないが、同じパターンを何度か見てしまう。天才性を磨くより毒性を抑えるほうが経営のコストにならない日はなかった。

いまAIが「当たり前の聡明」を下支えするようになり、ブリリアントジャークという言葉が持っていた現実味も変わってきた。デジタル業務では、インフルエンサーのように個人の著名性が付かない限り、職人芸だけを盾にする合理性は薄れていく。ブリリアントでなくても回る。ならばジャークは不要だという読み方も成り立つ。以前は腕が立つからこそ抱え込むという政治があったが、いまは平均的な説明責任と、そこから脱線しない人格のほうが選別基準に近づいているように見える。歓声の下が空洞に感じるのは、その転換がきれいごとだからではなく、人をつなぐ糸口がますます拍子抜けになりそうだからだ。

自分がいつかあの沈黙の側に立ち、誰かのチャットを毒で埋めないように、と誓う。