激流の中洲

五月になった。暦の上では、そう言える。

卯月も皐月も、もうとっくに過ぎ去っている。師走のように忙しかった。いや、あの十二月の慌ただしさより、正直きつかったかもしれない。年末は「みんなで慌てる」という逃げ道がある。いまは違う。誰もが黙って速くなろうとしているように見える。

桜のあるはずの季節だったのに、桜を見たという確かな記憶がない。通勤電車の窓の外に、薄い桃色のかたまりが流れた気もする。だが止めて見上げたという記憶はない。駅の階段を上り下りし、改札を出て、会議室の蛍光灯の下でパソコンを開き閉じするあいだに、花はどこかへ流れていったのだろう。昼の散歩などという言葉は、いつの間にか辞書の奥へしまわれた。

とにかく忙しい。昼も夜も、頭の片隅にタスクの名前が並んでいる。寝る前に目を閉じても、明日の段取りが勝手に動き出す。今日やり残したものが、明日の腹の底で重たくなる。コーヒーを何杯目かまで数えるのをやめた。首筋がこわばるのも、もう季節のせいだけとは言えない。

勤め先では生成AIが具体的な業務に実装されてしまっている。誰かの手が速くなると、私の机にもまた別の仕事が滑り込んでくる。連鎖だ。雪だるまだ。本人たちは悪気がない。むしろ前向きなのだ。だからこそ受け取る側の胸の内がざわつく。

私一人が取り残されているわけではないのに、足もとの川だけが荒れている気がする。誰かと話せば「そうだねえ」と言う。それでも胸の奥では、一本だけ渡り板が足りないような不安が消えない。

私はたぶん、川の真ん中の洲に立っている。浅瀬に見えて、実は深い。かつては渡れたはずの距離が、いまは幅を増しているように感じる。そこへ激流が何筋も、横からも縦からも走っていて、一本ずつ渡す術を、私はまだ体に染み込ませきれていない。こちらを見ないで流れていく川もあれば、正面からぶつかってくる川もある。波が白く立つのは、遠くの景色だけではない。

Generative AIとしては、まだ使えているつもりになれる。文章を書かせ、検索させ、たまにはコードまで頼む。こちらが言葉を並べれば、向こうから答えが返ってくる。その仕組みには慣れてきた。画面に文字が並ぶのを見るのは、それなりに楽しい瞬間もある。

けれど問題はそこではない。Generative AIで答えを得ることと、Agentic AIで仕事を任せきることは、別の話だということを、いまさらのように思い知らされる。Agentic AI——ひとたび指示を与えれば、手順を踏み、ツールを渡り歩き、承認のあとまで進むという話——になれば、景色はまったく変わる。Agentic AIとしては、私はまだそこへ足を踏み入れられない。定形の、毎日決まった型にはまる仕事を、そっと外へ押し出してしまうところまで行かないのだ。

つまりGenerative AIとしては使えていても、Agentic AIとしては使いこなせていない。Generative AIもAgentic AIも、言葉としては知っている。デモも見る。それでも自分の机の上では、まだ「こちらが叩いて、向こうが返す」関係から抜け出せない。Agentic AIに任せる胆力というより、最初の一手をどう設計すればよいかまでは煮詰めきれない。その結果、私の手と目はいまだに古い型にはまったままだ。

使えているようでいて、使い切れていない。Generative AIでは生成だけ済ませても、Agentic AIとして業務の呼吸そのものを預けられていない。それがいちばん喉につかえる。

そして妙なことが起きる。激流から逃れるのに一日を使い果たすと、その果てに残る時間でAIに向き合う余裕が、どんどん少なくなっていく。急流を避けるための橋をかけようとしているのに、かける材料を探す時間がないのだ。疲れた夜には、画面を開くだけでため息が出る。橋をかけたいのに、杭を打つ穴を掘る体力が残っていない。

それがいちばん、まずい。自分で自分の首をしめているような気もするが、それでも手はキーボードから離れない。五月の風はもう外にあるらしい。駅のホームで袖を通す人々の服が薄くなってきた。それなのに、その風が私の肌に届くには、まだまだ間があるように思える。