みえない球場
テレビを捨てよ、球場へ行こう——しかしその球場は、誰も映してくれないのだ。
WBCが始まった。大谷翔平という名の怪物が、また世界の空を飛んでいる。しかし野球を知っている国というのは、案外少ない。世界地図の上に、野球の光が灯っている場所を探すと——アメリカ、日本、中南米の一部、そしてあとは暗闇だ。
日本列島が沸いている。スポーツにふだん関心を持たない人々までもが、大谷の名前を口にする。だが奇妙なことが起きている。今年のWBCは、テレビでみられない。Netflixが放映権を独占したからだ。地上波のテレビ局は、映像を使えない。各局のスタジオには、すごろくのような盤が置かれ、アナウンサーたちが、実際には起きていない試合を言葉だけで語り合っているという。
これは演劇だ、と私は思った。
舞台の上で「刀を抜く」と叫ぶ役者がいる。刀はない。しかしそれで観客は震える。言葉が、実体のない現実を作り出す。スタジオで、すごろくの駒が三塁に進むとき、日本のどこかで誰かが本当にガッツポーズをしているかもしれない。
私はNetflixに加入していないが500円払えばみられる。DAZNにも加入していて、スマートフォンの小さな画面でサッカーや格闘技をみることに慣れている。技術的に、私はWBCをみる準備が整っている。
それでも、みていない。
なぜだろう、と自問した。そして思い当たった。WBCは、もう「本物」ではないのかもしれない、と。
十五年以上前、WBCが初めて開催されたとき、私はマニラにいた。仕事でフィリピンに渡っていた。フィリピンでは野球はほとんど知られていない。現地のテレビには試合が流れない。私はホテルの部屋で、インターネット——おそらくTwitterだったと思う——のテキストだけを追った。
「ヒット!」「三振!」「逆転!」
文字だけの実況。映像も音もない。それなのに私は興奮した。手が震えた。日本が優勝した瞬間、私は一人で泣いた。ニノイアキノ国際空港の片隅で、知らない場所で、テキストをみながら涙を流した。
あの涙は本物だった。
今、私はソファに座り、Netflixを開くための気力を持てないでいる。すべてが整っているのに。大谷翔平という人類史上最高の野球選手が出場しているのに。日本が熱狂しているのに。
あの私を泣かせたものは、何だったのだろう。
おそらく、それは「みえないこと」の力だった。情報の欠落が、想像力を呼び起こした。文字が絵になり、絵が感情になった。スクリーンに映し出された完全な映像は、むしろ想像の余地を奪う。
あるいは——WBCというものが、もはや「世界一を決める戦い」ではなく、「世界一を決める戦いのような何か」になってしまったのかもしれない。エキシビジョン。商業イベント。美しく整えられた見世物。
演じる者たちが本気でも、構造そのものが舞台装置になったとき、観客は夢から醒める。
テレビがWBCを映せなくなった年に、私はWBCへの情熱を失った。これは偶然だろうか。
もうひとつ、白状しておかなければならないことがある。
私はこの熱狂の空気が、苦手だ。大谷翔平、大谷翔平、大谷翔平——列島じゅうがひとつの名前を唱える。スポーツ紙だけではない。経済紙も、文化欄も、老人も、子供も。まるで一つの巨大な生き物が、同じ方向を向いて息をしているようだ。その均質な熱に、私はどこか怯える。
そして、愛国心というやつが、また顔を出す。「日本、頑張れ」「侍ジャパン」。国旗を振る手が、スタンドを埋める。私はその景色を美しいと思えない。あの旗の下で、人は個人であることを少し手放す。熱狂は人を溶かす。溶けた人々は、ひとつの塊になって転がっていく。
それでも十五年前、私はマニラの暗い部屋で、一人で泣いた。日本が勝ったから、ではなかったかもしれない。誰とも共有できない興奮を、一人で抱えていたから、泣いたのかもしれない。
孤独な涙と、群衆の歓声は、同じ試合をみていても、別の体験だ。私が失ったのは野球への情熱ではなく、あの孤独だったのかもしれない。