最後の音楽会
小学校の音楽会に行ってきた。年に一度の行事で、次女は六年生だから、これが最後になる。
正直に言うと、僕はこの日をけっこう楽しみにしている。五十五年も生きていれば、心にはそれなりに汚れがたまる。音楽会は、それをひととき洗い流してくれる。洗車機をくぐり抜けるみたいに。
心が震えるのは、うちの子の歌だけではない。低学年の子どもたちは、とにかく一生懸命で、そのかわいらしさに参ってしまう。中学年になると、ちゃんと上手くなる。そして高学年になると、男の子たちの声が低く、大きくなって、ハーモニーがひとつの形として完成する。僕らはそれを毎年、体育館のパイプ椅子に座って確かめにいく。
その音楽会で、忘れられない出来事がひとつある。何年か前のことだ。
合唱が始まり、ピアノの伴奏が流れ出した。曲は、当時流行っていた歌謡曲だった。誰もが知っていて、どこでも耳にする、言ってしまえば凡百な曲だ。ところが最初の数小節で、僕は「おや」と思った。それはバイエルの延長線上にあるような、教科書どおりの伴奏ではなかった。
彼の演奏には「遊び」が入っていた。なくてもいい音だ。楽譜の上では、たぶん必要のない音。でもその音がひとつ入るたびに、聴き慣れたはずの曲が、おそろしくかっこよくなった。和音がふっと思いがけない方向に崩れ、また戻ってくる。即興だった。ジャズだった。子どもたちの歌を支えながら、ピアノはそのすき間で、自分だけの小さな会話を続けていた。
気がつくと、僕は泣いていた。理由はうまく説明できない。ただ、本物の何かに不意打ちされたとき、人はときどきそうなる。
あとで聞いた話では、弾いていたのは次女の同級生で、ふだんは教室に来ない男の子だったという。僕は彼について何ひとつ知らなかった。その子が、あの騒がしい体育館でピアノの前に座り、誰にも似ていない音を鳴らしていた。そこにどれだけの事情や勇気があったのか、僕には想像することしかできない。
それ以来、僕はときどき彼のピアノのことを考える。スマホで録っておけばよかったと思うこともある。でもたぶん、録らなくてよかったのだ。あれはあの場所で、あのとき一度だけ鳴った音だった。
それでも、いつかもう一度、彼の演奏を聴きたいと思う。どこかの小さな店で、グラスを片手に。彼が大人になって、まだピアノを弾いていてくれたらいいのだけれど。
最後の音楽会が終わり、僕は体育館を出た。来年はもう、ここに来る理由がない。心の汚れは、これからどこで洗えばいいのだろう。そんなことを考えながら、少し冷えた秋の道を歩いて帰った。