無駄の値打ち
ネットで、あるまとめを読んだ。理系の夫が「日本史とか世界史の勉強ってほんまにムダやったなと思う」と言った、という話である。少し前の私なら、うなずいていたかもしれない。
実際、世界中でSTEM教育、つまり科学、技術、工学、数学に力を入れようという流れが強まっていた頃、私はその意味をよく理解しているつもりだったし、そうあるべきだと考えていた。インターネットの仕事では、去年覚えたことが今年は通用しない。その流れの中に立っていると、流れてこない古いものは、たしかに役に立たないものに見える。
考えが変わってきたのは、たぶん生成AIが現れてからである。コードを書くことも、文章をまとめることも、調べものも、AIがかなりの部分をこなすようになった。そうなると、人間に残るのは、何を問うか、何を良いと思うか、何のためにやるのか、という部分である。その足場は、技術そのものからは出てこない。
寺田寅彦は「科学者とあたま」にこう書いている。
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
最先端を追う仕事は、足の早い旅人であることを求める。私もずいぶん急いで歩いてきた。そして今、足の早さそのものはAIのほうが上になりつつある。
最先端の知識はすぐに古びる。歴史や文学や芸術や哲学は、もう古びてしまったものだから、それ以上は古びない。古びない物差しを持っている人だけが、新しいものの本当の新しさを測ることができる。望遠鏡の口径が大きければ、一つに見えていた星が二つに分かれて見える。教養とは、その口径のようなものだと思う。
子ども向けのプログラミング教室にも、一定の意味はあると思う。ただしそれは、論理的に考える力を身につけるためであればの話である。手に職をつけさせることが目的なら、私は否定的だ。その「職」の中身こそ、AIがいちばん速く置き換えていくものだからである。
いま私がより強く価値を感じているのは、大人が歴史や文学や芸術や哲学を学ぶ機会をつくることである。働きながら、新しい技術に追われながら、ふと立ち止まって古いものに触れる場所。若い頃に無駄だと思って素通りしたものに、もう一度出会い直せる場所である。
無駄の値打ちは、無駄をしている最中にはわからない。寺田も、研究の価値が「十年百年の後に初めて認められることも珍しくはない」と書いた。大人になってからでも、値打ちに気づくのは遅くない。
足を止めるつもりはない。けれどもこれからは、ときどき道ばたに落ちているものを拾いながら歩きたい。そして、同じように拾いたい人が集まれる場所を、いつかつくりたいと思う。