本屋の陰翳
書店が六割も消えたといふ記事が、スマホの画面に流れてきた。全国の書店の数は、店舗数の最も多かった一九九八年度から三十年足らずのうちに六割が消え、二〇二五年度の末にはつひに九千九百九十三店と、一万店の大台をも割り込んだのだといふ。都心の大きな店も閉じるのだといふ。私はその記事を開きもせずにリポストした。読まずとも、その中身はおほよそ察しがついたからである。そして同時に、胸の奥でかう呟かずにはゐられなかった。本屋といふ場所が、とうにつまらなくなってゐたのもまた事実ではないか、と。
昔の本屋には、ほの暗い奥があった。入口の平台には新刊が明るく積まれてゐても、一歩奥へ踏み入れば、背の焼けた文庫や、誰が買ふのかと訝しむやうな分厚い全集が、蛍光灯の光の届ききらぬ棚の陰に、ひっそりと肩を並べてゐた。私はあの陰が好きであった。紙と糊と、いくらかの埃の混じった匂ひ。指先で背表紙をなぞると、函入りの本のざらりとした布の手触りが、まるで人の肌のやうに温かく応へてくれたものである。
あの奥の棚に並んでゐたのは、売れる本ではなく、そこに在るべき本であった。今月誰も手に取らなくとも、来年のある雨の午後に、ひとりの学生がふと見つけ出す。さういふ本のために、店は棚の一段を黙って明け渡してゐた。在庫とは、本屋にとって、いはば沈黙の教養であったのだと思ふ。
ところが今の本屋はどうであらう。店に入るなり、白々とした照明が隅々まで行き渡り、どこにも陰といふものがない。平台を占めてゐるのはベストセラーと話題の本ばかりで、テレビで紹介された、SNSで評判になった、といふ手書きのポップが、どれも同じ声色で叫んでゐる。常に棚に在るべきはずの古典や、地味だが長く読み継がれてきた名著を探して奥へ進んでも、そこには奥がない。代はりに拡がってゐるのはコミックの売場であり、そのさらに先には、キャラクターのアクリルスタンドや缶バッジや、およそ本とは呼べぬ品々が、つるつるとした光沢を放って吊るされてゐる。
私はそれらを悪しざまに言ふつもりはない。コミックにはコミックの美しさがあり、それを愛する人の熱もよく分かる。ただ、あのつるつるとした樹脂の光沢と、古い紙の鈍い艶とは、どうしても同じ棚には収まらぬやうな気がするのである。漆の器が蝋燭の揺らぎの中でこそ美しいやうに、ある種の本は、薄暗がりの中で人を待つことによってのみ、その本当の顔を見せるのではあるまいか。
在るべき本がない店で、在るはずもない一冊を探して歩くほど、侘しいことはない。結局私は何も買はずに店を出て、帰りの電車でスマホを開き、ものの数十秒でその本を注文してしまふ。翌日には段ボールに包まれて届くのだから、便利には違ひない。けれども、あの本と私とのあひだには、偶然の出会ひも、棚の陰で目が合ふやうなときめきも、もはや一切ない。
思へば、CDショップが街から消えていったときも、これと同じ道筋を辿ったのであった。かつてのレコード屋には、店員が手書きで推す無名のバンドの棚があり、ジャンルの迷路の奥に、誰も知らない名盤が眠ってゐた。それがいつしかヒットチャートの上位ばかりを並べるやうになり、アイドルの特典やグッズが売場を覆ひ、やがて人々は、それならばと配信へ流れていった。店は自らの陰を削り取って明るくしたつもりで、実は自らの存在理由を手放してゐたのである。
本屋の衰へを、人はネットのせゐにする。PCやスマホで何でも買へるやうになったからだと言ふ。それも一面の真理ではあらう。しかし私には、本屋がネットと同じ明るさを求め、同じ売れ筋を並べ始めたときに、すでに勝負はついてゐたやうに思はれてならない。売れる本だけを並べるのなら、それはネットの方がはるかに上手である。本屋にしか出来なかったことは、むしろ売れない本を、売れないままに抱へておく、あの陰の深さの方であったはずだ。
六割が消えたといふ数字を見ながら、私は今さら嘆いてみても始まらぬと知りつつ、それでも、あの棚の奥の、ほの暗い一隅を惜しまずにはゐられない。蛍光灯の光がわづかに翳るあたりで、背表紙の金文字が、鈍く、しかし確かに光ってゐた。失はれたのは店ではなく、あの陰翳の方なのである。