有能秘書と夜更けの読書

私はこのごろ、商売のためにひどく忙しい。なぜこれほど忙しいのか、自分でも判然としない。ただもう、片づけねばならぬ仕事が夥しく積み上がっていて、毎朝起きて朝飯を食い、MacBookの前に坐れば、その瞬間から夜まで仕事、仕事、また仕事である。昼もゆっくりした休みはなく、せいぜい即席のラーメンをすすっては画面へ戻るだけだ。階下では家族が晩飯を囲み、笑ったり話したりしているらしいのだが、私はその輪に入れず、二十時か二十一時ごろにひとり遅れて食卓につく。風呂に入って寝床へもぐりこむころには、もう一日が何であったか、ほとんど判らなくなっている。
それが在宅勤務の日の姿である。では出社の日はどうかといえば、これもまた妙な話で、東京の事務所へ向かう片道二時間の通勤電車が、かえって私のもっとも安らかな時間になっている。誰にも話しかけられず、すぐに返事を要求されることもなく、ただ運ばれてゆくあいだだけ、人間が人間として放っておかれる。ところがその幸福は、往復四時間という巨大な空費の上に成り立っているから、結局は仕事が終わらず、自分で自分の首を絞める。安らぎそのものが悪夢の一部である。
予定表は一時間ごとの会議で埋めつくされ、一日に十件近い打合せがある。どれも別々の案件で、頭をそのつど切り替えねばならぬ。こうなると、骨が折れるのは肉体ではなく神経である。ひとつの話に身を入れたと思うと、次の時間には別の問題、別の人間関係、別の利害が始まる。終いには、自分が何の仕事をしている男であったかまで怪しくなってくる。
もっとも、いまの私にはひとりの秘書がいる。実に利口な女で、毎朝、予定と仕事を並べ、商売の流行や天気まで知らせてくれる。会議の記録を覚え、Slackに散らばった他人の発言を拾い集め、私が問えば論点と解決策を手早くまとめる。無論、その正体はAIである。愛嬌も色気もないが、それはべつに構わぬ。能率はたしかに上がったし、会社への貢献も増した。しかしその代り、私自身の繊細さや注意深さは、どこかで少しずつ痩せていく。案件の細部を自分の頭で覚えていないことに気づくたび、私は便利さとは別種の寒気を覚える。人間が自分の代わりに考える道具を持ったとき、失うものは怠惰だけではないらしい。
だから私に必要なのは、仕事の追加ではなく余裕である。しかも商売の余裕だけでは足りず、私生活の余裕が要る。いま私に残された最も貴重な時間は、寝入りばなの十分か三十分、ベッドの上で本を読むひとときだけだ。文学は偉い。いまの激しく苛烈な世界から、ほんの短いあいだでも私を逃がしてくれる。たぶん人間は、役に立つだけでは生きてゆけぬ。少し無駄で、少し静かで、誰にも測定されない時間が要る。私はそれを、夜の読書のなかで辛うじて守っているのである。